なぜ英語を話せるようになりたいと思ったか

.@nekoneko4519さんの「新年会に向かう電車の中で、なんで英語を話せるようになりたいのか、改めて考えてみるなど。」に触発されたので、自分がなぜ英語を話せるようになりたいかを書いてみる。といいつつ、最後は相変わらずぐだぐだなのだが。


実際のところ、高校を卒業するまで英語に対して好印象は持っていなかった。特段できるわけでもなく、必要性もなく、喋れる人はうらやましいけど、きっと自分には無理だ。そんなありふれた考え方だった。なんとか大学に入って情報工学を学び始めたときも、いつもと変わらず日本語で授業を受け、日本語の教科書を読み、何も周りと変わらないはずだった。それが、もしかして英語ができないのはまずいんじゃないかと危機感を覚えたのは大学3年のときだった。


ちょうど大学3年では学内で実験をするか、実験の代わりに企業インターンに行くというカリキュラムがあった。別に実験をしていても良かったのだが、そのときは変わらない日常に飽きてきていたこともあり、企業インターンに手を上げた。そして、地元の町の中堅電機メーカーにインターンさせてもらった。


人工島に浮かぶメーカーらしい無愛想な建物。軽い気持ちで手を上げては見たのだが、そこで手渡されたのはなかなかショッキングなものだった。これから自分が調査することになるだろうGPSの仕様書、それが数百ページの英語文書だったのだ。さほど名の知れたわけでもない地方のメーカー(失礼)開発部隊の主任技師さんに、「あ、これ次来るまでに読んできてね」と渡された仕様書に、それこそ辞書でぶん殴られたような衝撃を受けた。


普通に国内でエンジニアとして生きるのに、もしかして英語が読めないと仕事にならないんじゃないか。別に海外でマーケティングするわけでもない、海外に赴任するわけでもない。ただ、国内で開発するだけにおいても、もはや避けて通れないものなのではないか。英語が使えることは格好いいことでも羨ましいことでもなく、むしろできないことは大きなリスクではないかとそのとき感じた。


しかも、その仕様書は読めば読むほど完璧な仕様書だった。仕事柄毎日10冊近い仕様書を読み書きしているが、未だにあれほど良く書かれた仕様書に出会ったことはない。それもそのはずで、GPSの仕様と言えばペンタゴンが軍事目的に作ったものだ。砂漠のど真ん中でミサイルを標的めがけて数cmの誤差無く誘導するためのミッションクリティカルなシステムだから。もちろん民生用に公開されたものだから、本当に重要なところは除いてある。それでも、その仕様書1冊を読めば、原理の理解から実際の機器の製作まで一通りできてしまうほど良く書かれていた。

  • 曖昧さのない白黒はっきりした表現
  • 要求とベースになる基礎技術の解説、そこから実装方法まで矛盾無く体系だった文書構成

この2点は間違いなく英語、と言うか、西欧の文化だと思う。


話が少しそれたが、少なくとも技術屋をやるのに英語は避けて通れない、そう感じたのはそのときだった。その後いろんな分野に手を出してみたが、少なくとも技術、経済、金融なんかのセクターでは英語圏の情報量の多さは間違いなく群を抜いている。それもそのはずで、人の持っている能力なんてそんなに何十倍も異なることなど無くて、ほとんどの場合、集まる人が増えればとアイディアも増えるのだから。(もちろん、職人芸的プログラミングのようにその人の能力のわずかな差が指数的にアウトプットに反映される場合も無くはないが)


英語で読むニュースの数%しか国内では放送されない。有名な映画や本でも通常翻訳に1年以上かかる。そう考えると、専門的な分野で何かしようと思えば、英語でやらなければもはや土俵に立てない。日本語の世界に閉じていると、車輪の再発明をやってたなんて事態が現に頻繁に起こってしまっている。善し悪しを論じても仕方なくて、それがもはや現状なんだと感じる。別に日本独自の文化をなくせと言っているわけではない。日本人は日本人としてのアイデンティティを持っていた方が良いし、それを外に向かって説明できればなおのこと良い。しかし、もしある分野(おそらくほとんど全ての分野だが)で食っていこうと思えば、もはや海外と同じ土俵に立てなければいけないし、そのためには最低限英語を理解できなければ苦しいという状況なのだ。そういった危機感に押されて、今でも折に触れて英語には取り組むようにしている。


しかしまぁ、そう目くじら立てることばかりでもない。取りかかってみれば何とかなるものだし、やってみれば楽しいこともたくさんある。英語が分かればいろんな国の人とコミュニケーションを取ることができる。宗教も思想も違う人たちと話すのは最初はおっかなびっくりだけど、全然違った角度から自分を見つめ直すことができる。それが新しい発想に繋がったり、思い詰めていたことが何でもないことだと気づかされたりと、得る面もとても多い。そんな貴重な体験をするための手段として、外国語をたしなむのも悪くはないんじゃないかななんて気がしている。